ティムのフィロソフィー/ものの見方、目覚め、ワンネスについての語録

12歳の時に突然起きた目覚めを体験して以来、ティムは霊性を真摯に探求し、神秘体験を重ねてきました。ティムのフォロソフィー/ものの見方、目覚め、ワンネスについての語録をオンライン・セミナーやリトリート、著書や動画などからピックアップしてご紹介します。

人生をどのように体験するかは、私たちがどの程度目覚めているか次第です。
人生の表面だけに目を向けていれば、意識の浅瀬にとどまります。
しかし、人生の深みに目を向ければ、深く覚醒していきます。
深く覚醒すると、無意識的な状態から目覚めたように感じるでしょう。
あなたは突然、この瞬間の神秘というワンダーへと開かれているのです。
それは自分が生きていることをハッと思い出すようなものです。
この深い意識に沈み込んでいくと、人生は"ワォ!"となります。

"ワォ"とは驚愕と感嘆を表現する言葉で、目覚めたときは
どのような気分になるのかを表すには適切なすばらしい言葉です。
なぜなら、深く覚醒するというのは、途轍もなく大きな"ワォ"だからです。
私たちが存在していることの根本にある驚愕なのです。
そして、この驚愕を認識して生きているということなのです。
私たちの存在の神秘への感謝の深遠な驚愕の"ワォ"、
人生の素晴らしさを実感している喜びに溢れる感嘆の"ワォ"、
言語で表現することのできないものと出会ったときの言語を絶する驚愕の"ワォ"なのです。

そこには愛の大海に浸りきっているような素晴らしいワンネスが広がっているのです。
人生の表面だけでなく、深みに目を向けるようになると、人生の体験が根本的に変容します。
あなたは真の現実へと目覚めるのです。
ワンネスへと目覚めると、どんな苦悩があったとしても、人生は基本的に善きもので本当に大切なのは愛なのだとあなたは知るでしょう。
すると、ワンネスとつながって生きる個のあなたが花開くのです。

意識が拡大してワンネスを認識しているときは、ワンネスと私たちはひとつであり、常に相互に関係性を持っていることを認識する時です。
でも、実際は私たちはワンネスといつもひとつであり、私たちが認識していても、認識していなくても、私たちはワンネスと切り離されたことは決してなく、常につながっていて相互に関係性を持っているのです。それが存在の性質なのです。

自分の意識がどこに向いているのか、どこまで深く観ているのかと、日常で問いかけることは大切です。表面的にしか目覚めていない状態を次のように言えるでしょう。

  • 何が起きているのかを知っていると自分の価値観や視点で判断を下している時
  • 人生が平凡でマジカルさに欠けていると感じている時
  • 今この瞬間を無視して離れ、どこかへたどり着こうとして頭がいっぱいになっている時
  • 人生がいかに素晴らしい冒険であるのかという事実を見逃している時

そういう時こそ、意識的に深く観る時だというサインです。

庭で鳥が鳴いているのが聴こえます。わたしはその音に入っていきます。わたしは本当に聴いています。歌声の声色とリズムが聴こえてきます。
深く聴くに従い、わたしの意識状態は変化していきます。まるで初めて聴いているかのように、聴くことはとても美しく感じられます。
今この瞬間の体験は、完璧で神秘的で、ワンダーに満ちています。注意力はしなやかながらもやわらかく、まるで音を撫でているかのようです。
聴こえてくる音と音の輪郭が溶け出し、あなたの広大な意識に立ち上る、ひとつの美しい音の流れになります。小川のせせらぎの音とひとつになったかのように感じます。
世界のすべてが震える音とともに鳴っています。
そして、わたしもまた音そのものです。

とても深い、とても重要な体験をしました。まだ語る時期ではないかもしれませんが、少し皆さんと分かち合いたいと思います。

わたしは完全に神に浸透しました。
身体の感覚や、マインドの意識もなく、ティムもいない、ただ神のみ、至福だけが在るという体験でした。
真っさらで無限に広がる部屋の中にいるようでした。
わたしは完全に歓迎されていました。
死のようでもあり、死から蘇ったようでもあります。

そして、ティムの意識が身体に戻ってきた時、ああ、また分離だと思うこともなく、身体があること、そして、ティムというストーリーを持っていることはなんて素晴らしいのだと思いました。
そして、ティムからの解放と、途轍もないティムに対する是認がありました。
そして、"声"が語りかけてきましたーーティムはよくやっているよ。続けていきなさいとーー。

わたしはわたしのすべての意識を向けて、この体験から皆さまに提供できる何か新しいものに取り組んでいます。
〜2019年11月深い体験後のティムのコメント〜

わたしはリトリートを 善き人々/Good people が集う場にもしたいと思っています。
この善/Good とは 神/God でもあり、途轍もない大きな愛です。
昨年末の重要な体験では、わたしはまさにその愛の中にいました。
この深遠な善/Goodness を、わたしたちは生まれながらにして宿しているのです。
そして、この善/Goodness は、わたしたちの中で進化しているのです。

勇気をもって恐れに目覚めた意識をもたらしましょう

現在、多くの恐怖が引き起こされています。
スピリチュアルな人たちの間では、恐れは大抵の場合、"愛"とは対照的でよくないものとみなされますが、これは誤った二分法的思考と言えるでしょう。
恐れはわたしたちに警告してくれるという良い側面があります。
また、わたしたちは他者や自分自身を愛しているので恐れるのは当然のことなのです。

しかしながら、このように恐れが蔓延している時には、可能な限り意識的であり、目覚めることがさらに重要になってきます。
勇気をもって恐れに目覚めた意識をもたらしましょう。
恐れが世界全体を覆ってパニックに陥った時には、その全体的な意識の群れに無意識的に同調するのではなく、そこから自分自身を切り離し、意識的であることが大切なのです。
ある特定の時期の集合的な風潮に同調して呑み込まれない個人として強く踏みとどまり、目覚めている必要があるのです。

危機に直面している時は、わたしたちは内面の深い叡智を常に見出す必要があるのです。
内面の叡智とは、危機を察知しながらも、わたしたちの周りを取り囲んでいる善/Goodnessを過小評価することはありません。
わたしたちは愛をもって一緒に困難なチャレンジに取り組むことができるということ忘れずにいる必要があるのです。

わたしの望みは、現在の新型コロナウイルスの世界的な流行から、わたしたち皆が集合的により賢明になってこの危機をきりぬけることです。
それは、人生において本当に重要なことは何であるのかを理解しているということです。つまり、 お互いを気遣って大切にすることがどれだけ重要であるのかを知っているということです。内的につながっているひとつの世界にわたしたちが生きているということを認識しているということなのです。こうしてより賢明になってこの危機をきりぬけて、人類が直面している気候変動などの他の危機にも、より効果的な行動を起こすことができるようになるということなのです。(2020年3月)

わたしにとってワンネスとの関係に常に在るものは、普遍的な善意だとお伝えするでしょう。それは他者との深いつながりであり、自分にとって、他者にとって、すべての人にとって、さらにはすべての存在にとっての善に関心をもつということです。

これまでの人類の進化のプロセスにおける個々の目的は、自分や家族、コミュニティーにとって良いことを見出していくことでしたが、ユニヴィジュアル(宇宙そのものであることに目覚めた個)へと進化するということは、今までとは異なる宇宙との関係性をもつ人間になるということです。

これまでの進化のプロセスにおいて、わたしたちは自分や家族、 そしてコミュニティーの生存を目指してきましたが、新しい進化の段階に入った今、
わたしたちはこの普遍的な善意を見出そうとしていると言えるでしょう。
つまり、これまでの狭い範囲内での良きことや生存を目指すのではなく、
新しいタイプの人間の誕生ということなのです。

それは自分の人生を肯定し、同時に全体に貢献する人間への進化です。
わたしは、皆さんに宇宙への奉仕者になっていただきたいと願っています。
これは途方もないことのように思えますが、そうではありません。
これはすべての交流やふれあいの中で出会うものですが、
わたしたちはこのことを知りながらも、普段は忘れてしまっているのです。
ですから、こうして皆で集うことが大切なのです。

2019年12月に発生したオーストラリアの山火事の際に、2018年のリトリートにオーストラリアから参加した方たちに、ティムが送ったメッセージ。

「このような状況でできる最善のこととは、それぞれが世の中により多くの愛をもたらすように行動することです。それで直接火の手を止めることができるというわけではありませんが、このように行動すると、わたしたち一人ひとりに宿っている善/Goodnessのパワーを高めます。それが、間接的に火の手を止めるための良い影響をもたらすのです。イギリスから大きな愛をお送りしています。」

あなたが唯一コントロールできるもの、それは、どこに自分の意識の注意を向けるか、ということです。
それだけが唯一、わたしたちがコントロールできることなのです。
自分の周りで起きていることは、コントロールすることはできません。
また、自分の心に浮かぶ想念さえもコントロールできません。

しかしながら、どこに自分の意識の注意を向けるのかということは、私たち自身でコントロールすることができるのです。
私たちが、この自分の注意を動かすとき、そして、どのように私たちが注意を払うかが、あなたの意識の状態を変えて、ワンネスに目覚めて生きる強力な鍵となるのです。

身体、サイキ、魂の他に、スピリットとか、あるいはアートマンとかと呼ばれる領域があります。
私がよく使う言葉は、ビーイング/存在という言葉です。
最初は、そのビーイングという形のない存在に注意を向けるのは、それほど容易なことではないでしょう。

しかし、練習を重ねていくと、徐々にそのビーイングの中に沈んでいくという感触を実際に得ることができるようになるのです。
やればやるほど、練習すれば練習するほど、自然にできるようになってくるのです。
それこそが、世界中のスピリチュアルな伝統が言っている、覚醒ということです。

自分は決して分離していない、わたしは世界中とひとつであるという意識に目覚めるのです。
皆さんとオンラインでつながることをとても楽しみにしています。

ある人の言動によって、悪い人とか信頼できない人だとする必要はないと、私は思います。
どんな人もブラインド・スポット(意識が届かないところ)を持っているものです。
それを見つけた時は、彼らとどのように関わるかということを、まず理解する必要があるのです。
だからと言って、その人とあなたが親友にならなくてはならないということではありません。

私たちは皆、異なった視点から人生を体験しています。
ですから、私たちはいとも簡単にお互いを誤解し、反感をつのらせていくことも起こり得るのです。

ただ、わたしたちは可能な限り、お互いを励まし合う必要があるのです。
そして、可能な限り、いつも愛を広げることができれば、それが常に最善のことになると私は思います。

小さなプロジェクトの中で自分はこの強い痛みや恐れを、何が失敗、敗北のように感じていても、
大きなプロジェクトの中では個はより進化に向けて創造されているのです。

排除されなくてはならないものは、あなたの利己心だけです。

わたしたちの魂は進化のプロセスにあります。
どのような状況であっても、そこに善を見出し、魂の進化に繋げていくことが可能なのです。

最も最先端で進化しているその深みとわたしが繋がる時、信頼が生まれてきます。
その信頼というのは、この進化の方向性、それが善なる方向だ、ということに対する信頼なんです。そしてそれは、ワンネスに向かって進化しているんです。(2021年1月)

魂の穴

目覚めていない時は常に何かが欠けている感覚があります。
魂に穴が空いていて、どう満たしたらよいのかわからないのです。
人生を変え、これで良いと思おうと試みますが、うまくゆきません。
けれど、しっかりと注意を払うと、私は愛を求めているのだということが見えてきます。
愛なしには人生は空虚で無意味です。

仏陀は、目覚めていない人生はドゥッカ(Dukkha)と呼ばれる苦しみに満ちているとしました。
ドゥッカは、背後に横たわる不安定さ、不満足感です。
死の知識から立ち上る存在の危機、他者から分離しているという根本的な感覚、世界からの孤立です。

この生きる力を奪う孤立感をグノーシスのキリスト教徒は見知らぬ人と名づけました。
このメッセージは、実存主義作家カミュの『異邦人 』に受け継がれました。
分離の感覚にとらわれる時、私たちは見知らぬ土地を彷徨う異邦人であるかのように感じるのです。

私たちは意識する個人であるというところから発芽しているため、この不安と孤独の感覚を避けるのは容易ではありません。
意識をするということは、世界の観察者としてワンネスから自らを切り離すことです。
脆い人間であることしか知らない時、私たちはドゥッカに悩まされ、辛い気持ちになります。

物理的、経済的に安定することでこの不安を回避しようとしても、人生という嵐において完壁に安泰であることはあり得ません。
重要視され尊敬されることでこの不安を回避しようとしても、死を免れるほど特別になることはありません。
成功し、うらやましがられることで、この不安を回避しようとしても、内に潜む空虚はあらゆる戦利品を空しく見せます。

奥深くで私たちは皆、魂の穴を埋めることができるのは愛だけだと知っています。
どんなに晴れ渡った日にも、その影に潜んで私たちを弱らせるドゥッカから自分自身を自由にできるのは、愛だけなのです。
愛だけが、生きることにおいて悪い出来事を和らげ、善きことすべてを祝福する力を与えてくれます。

まるで珍しくて見つけることが難しいものであるかのように、私たちは愛を求めますが、私たちが内を見つめ、愛の源を見つめると、愛が不足することはないのだとわかるでしょう。
私たちは愛の海に呼吸をし、愛の海に存在しているのです。

それを理解する時、『水中を泳ぐ魚が「喉が渇いた」と言う時、笑わずにはいられない』とカビールが記したように、私たちは人間の置かれた状況のアイロニーを笑うことができるようになるでしょう。

「私の敬愛する哲学界の英雄ソクラテスはこう述べています。
ワンダーの感覚は、哲学者にとっての試金石である。それは哲学の始まりにすぎない。
哲学は、かつてこのように捉えられていましたが、今日においては味気のない概念の模索として解釈されることが多いのもまた事実です。
私は何年も前、この現代的解釈に基づいた哲学を大学で専攻していました。
精神にとっては最高のトレーニングでしたが、いつの間にか言葉の迷路に迷ってしまったのです。
私は『スピリチュアルな哲学』に興味を持っていました。
それは言葉の森を抜け、経験の神秘へと私たちを導くものであるはずです。
スピリチュアルな哲学は、思考によって神秘を曖昧にするのではなく、思考を用いることで神秘を明かそうとします。
概念は概念に過ぎないことを認識し、概念が神秘を孕むことはできないと理解しています。
究極の答えを提示するのではなく、生きることの経験をさらにワンダーに満ちたものにする新たな見方を授けるのです。」『神秘体験』より

耐える時、知恵と慈悲は深まります。
耐えることは耐えられるようになることであり、そうすることで強くなるのです。
スピリチュアルな挑戦とは、ハートを閉ざすことなく、試練に立ち向かうことです。
いや、それ以上に、苦しみによって自分を開くことなのです。
苦しみは辛い経険ですが、喜びやワンダーと同じだけ目覚めさせる力を持っているのです。
愛する英雄はかき乱される準備ができていて、その混乱を通じて自由になるのです。
愛が流れ込むために、ハートは幾度も破られ、開かれる必要があると知っているのです。

2019年清里リトリートを終えてのティムのコメント

私は今、日本にいて、こうして山々を見渡しています。この素晴らしい施設でリトリートを終えたばかりで、太陽の燦燦とした日差しを浴びながら気分は最高です。でも、疲れも少しでてきたので、そろそろ家に帰るタイミングかもしれません(笑)。

とはいえ、こうして日本文化の中に身を置き、たくさんの素晴らしい人たちと出会えたことはなんという特権、なんとマジカルな体験だったのだろうと思います。言葉の壁にも拘わらず、皆さんと本当に深い体験をすることができました。実際には、言葉の壁はなかったと言うべきでしょう。なぜなら、通訳者もとっても素晴らしかったし、主催者もとっても素晴らしい方だったからです。会場も、周りの方たちのサポートも心地よくパーフェクトでした。このような環境に恵まれたこともあって、わたしたちはユニヴィジュアリティ(個でありながら、同時にワンネスにも目覚めている)を深く探求し、ワンネスに目覚め個をいきいきと漲らせるという体験をすることができたのですね。

今回の清里リトリートでの最高の喜びは、一人ひとりが個として命を輝かせ始め、愛を享受するのを目にしたことでした。爆発的な時もあるかと思えば、静けさの深みに浸っていく時もありました。そして清里リトリートの最後には、皆が喜びと愛で満ち溢れていました。
一人ひとりが個として花開いていくのを目にすることができるのは本当に素晴らしいです。ワンネスに目覚めるというのは個を通して起きることです。ですから、個人がいきいきすれば、ワンネスもより明白となります。そこには大いなる愛があるのです。

リトリート中、私たちは深い目覚めの体験に飛び込んでいきました。深遠なアイディアをいくつも共有し、興味深い質問もたくさん投げかけられました。すべては完璧でした。
こうして日本へ招聘され、温かい歓迎を受け、このワークをみなさんと分かち合えたことを私は本当にありがたく思っています。皆さんからたくさんの愛も受け取りました。こんなにたくさんの写真をとってもらったのも初めてで(笑)嬉しかったです。 

本当に特別な4日間でした。今回、日本に故郷ができたように思え、さらに深いワンネスの体験を望む人たちのために、この場に何度も何度も戻ってくるような気がしています。
今回のリトリートはほとんどの方たちが私を知らないというリスクを負って参加してくれましたが、最後には全員が参加したことを喜んでくれていました。私も皆さんが来てくれたことをとても嬉しく思っています。皆さん一人ひとりと、こうして会えたことは、私にとっての特権です。

人間は素晴らしいものです。リトリートでお話したように、私たちの真の姿を観るということは実に素晴らしいことです。私たちは皆それぞれとても素晴らしいのです。

目覚めについて頭で理解したものの、まだ経験してないという人もいるかもしれません。
知的理解は大きな助けとなりますが、「ワォ!」を経験するためには思考を超えなければならないのです。

私にとってのスピリチュアルな冒険とは、本質においては愛にまつわる冒険です。
ハートを開くためには、マインドを澄んだ状態にする必要があるのです。

目覚めは肉体から切り離された悟りの経験ではないのです。
それは肉体的に生きる感覚を経験することです。
深く目覚めている時、私たちは存在することへの愛を本能的に感じ、それは、皮膚に包まれた体と呼ばれる神経、肉、骨へと浸透するのです。
すばらしい肉体!
これは誰もがすべき体験なのです。

深く目覚めている時、私は「生き生きとした状態」と呼ぶ情熱的な状態に入る。
その状態にあって私は力強く今ここにあり、その瞬間を心より愛している。

生きることと恋をしているからといって、人生はすばらしいと常に感じるわけではありません。
それは生きることをそのまま丸ごと愛すること。
良いこと悪いことのどちらも抱きしめるということ。
人生の騒乱を情熱的に楽しみ、寛容に耐え、それらを通じて愛することを学ぶ。
「ワォ!」に目覚めるのはすばらしい感覚ですが、それは単に心地良い感覚ではありません。
深く愛することは時として深く苦しむことでもあります。
目覚めることで、私は愛に支えられ、意志をもって苦しもうとします。
そうする時、心を痛めることも、また意味を得て心に響き、美しく輝く。
しっかりと耳を傾けると、生きることの「ワォ!」はさまざまな音色で奏でられていることがわかるのです。
喜びに満ちた恍惚の「ワォ!」もあれば、じっと耐える悲しみの「ワォ!」もある。
興奮に溢れた希望の「ワォ!」もあれば、落胆に嘆く「ワォ!」もある。
親しみの温かさがほとばしる「ワォ!」もあれば、胸を貫くような喪失の「ワォ!」もある。
生きることの音楽は長調で奏でられることもあれば、短調で奏でられることもあり、私はそのどちらにもかき立てられるのです。

生きることが解いてみたいと思わせるほどに大きな謎であったからこそ、私はスピリチュアルな探求の旅に出たのです。
しかし、やがて私は、問いこそが答えであったと気づきました。
人生は神秘です。
それこそが生きるということです。
神秘を知る時、生きることは何なのかをとても親密に知っていて、そこに言葉は必要ないのです。

物語と神秘の両方を意識することが大切。
矛盾するようだが、自分の物語をしっかりと把握している時、神秘においてリラックスすることはより簡単になる。
生きることが何なのかを知りながらにして知らないと気づいている時、存在することの荘厳な謎と恋におちる。
私を取り巻く神秘をまるで温かな抱擁のように感じ、私の内にある神秘がすべてを確証する存在であるように感じる。
恐れてなどいない。
驚異の念でいっぱいだ。

私たちが知っている、あらゆる物語の中心は深い神秘であるということが、この中であなたと分かち合いたい論理を超えたメッセージ。
深い神秘の中心には深い知恵が横たわっている。
それは直接的なもので言葉に媒介されることはない。
それは“すべてが良い”という静かな確信。
大切なのは愛だけだという揺るぎない信念。
これは数えきれないほどの世代を通してスピリチュアルな探求を行った人々が口々に伝えてきた荘厳で興味深い洞察。
何でもないようなシンプルな気づきがすべてを変える。
真実はあなたを自由にする。
“目覚めること”は、“知らないこと”と同じだけ簡単。
この大胆なメッセージの神髄を理解してほしい。
生きることに深くワンダーすることへとあなたを誘うので「本当は何も知らないのだ」という深い状態にあって、意識の状態にどのような変化が起こるのかを見てほしい。
生きることについて、知りながらにして知らないという理論を超えたアプローチをしてほしい。
生きることが意味を成すように、私たちはその物語を必要とするが、「ワォ!」を経験するには、何が起こっているのかを本当は知らないと理解しなければいけない。
目覚めのアートとは物語と神秘の両方に気づいていること。
本当に何も知らないのだとハッキリ知るには多少の努力が必要。
物語は物語に過ぎないと知り、根本において深い神秘に気づく必要がある。
ハートの真ん中にある言葉で答えることのできない言葉なき問いに意識を向ける。
言葉にすることのできない問いに生きることの深い神秘へと連れて行ってもらう。

ただ呼吸することの喜びに浸れることは、実に美しい経験です。

私は時間を取り、ティムの物語での出来事について感じていることをたっぷりと受け入れた。
別れの悲しみを讃えた。
後悔と恐れを認めた。
そして、その物語をしばし傍らに置くことを選んだ。
意識的に物語から身を引き、この瞬間の時間を超えた安らぎにおいて自分をリフレッシュすることを決めた。
この瞬間の神秘に深く入ると、そこにあるのはせせらぎの音楽だけで、私の心掛かりを優しく撫でながら取り去ってくれた。
私のハートは開かれ、存在することの深い愛を感じ、表面上の出来事がどうであれ、すべては良いと深く知っていることに気づいた。
意識の状態が変容するまで時間を超えた瞬間に留まった。
そして、直感的に「今だ!」と思ったその時、注意を物語に戻した。
その時、私は自分の苦難を新たな視点で見つめ、何をすべきか知っていた。

私は意識していることに意識的。
私は存在していることを意識している。常に存在するとても神秘的な存在であると感じる。
私は変わり続ける経験の流れを見つめる変わることのない静けさ。
経験の流れにおいて私はティムと呼ばれる人物として現れる。
けれど、本質的には私は展開し続けるティムの冒険を目撃する気づきそのもの。
これが私の深い自己。
は気づきの存在であり、これはすべての経験の背景。
これが私の裸の存在。
身体は私がそう現れるもの。
気づきは私がそうであるもの。
アイデンティティの表層において、私はティムと呼ばれる肉体。
アイデンティティの深みにおいて、私はティムの冒険を見つめている気づき。
表層において、私の身体は感覚の世界に存在している。
表層において、私は物理的な客体として現れている。
深みにおいて、私は本質的なスピリチュアルな主体。
客観的にいえば、私は物理的な肉体。
主観的にいえば、私は気づきの存在。
世界は気づきの内に存在する。
気づきが私の経験の中にあるのではなく、経験が気づきにおいて起こっている。

ある視点からは、私は物語に登場する人物であるように見える。
もうひとつの視点から見ると、私はすべての経験が立ち上がる広大な気づき。
明晰に生きる時、人生の物語はそれまでと同じように続くが、私は世界にありながら、世界にないことを理解しており、生きることの経験は変容する。
私の本質は、時間において展開するティムの冒険を目撃している。
私はティムを通じて意識している最上の存在。
特定の自分として個別化した無意識の場。
私はこの意識的な肉体として個別化された無意識の宇宙。
肉体は宇宙から切り離されているように見えるが、それは本質的に宇宙とひとつであり、独立した存在ではあり得ない。
私は意識的な個ティムとして立ち上がる無意識のワンネス。
私の存在は、他の存在から切り離されているように見えるが、すべての存在は本質的に生きとし生けるものとひとつ。
私はすべてのものから分離しながら、それらとひとつ。
根源の気づきは永遠の存在であり、時空には存在しない。
時空は気づきに立ち出る分離の夢という個性を築く。
存在の根源的場はあらゆるところにいつも在る。

私にとって目覚めのすばらしさは、私の人間らしさをあるがままに受け入れさせてくれること。
深い自己に目覚めながら、人間性を祝福する。
表面においてティムは不完全で脆く傷つきやすい存在であると意識している。
そこにすべてを包み込む愛がある深い自己を意識している。
怯えた子どもを抱きしめるようにティムを抱きしめ落ち着かせようとする様子を想像する。
栄光なる欠点と共に、ただわたしは"それ"であるという理由でそのままのティムを愛する。

生きることは進化のプロセスであり、人生の目的はどこかに到着することではなく、旅をすることそのもの。
過程こそが目的。
自分自身に忍耐強くあること。
それはぶつかり合うペルソナ達の内なる対話。
多種多様な内なる意見に耳を傾けること。
傷ついて愛されない自分をなだめて暗闇から連れ出し癒されるまで優しく抱きしめる。
そして愛に溢れた深い自己の現れへと進化するために、自分の性質を受け止め欠点を許す。
自分自身に落胆した時、俯瞰し、深い自己の視点から分離した自分を見つめる。
まるで問題を抱えた子どもの母親のように。
葛藤する子どもと向き合う時と同じ慈愛で自分を抱きしめる。
ありのままのティムが愛に値すると知るまで。
目覚めはスピリチュアルな到達点ではなく、あらゆる瞬間すべての人が触れることのできる自然な状態。

生きることの恋人であることは聖なる探求において、愛の現れになるために生きることを愛する英雄であること。
勇敢に愛を確信し、目の前に立ちはだかるジレンマに向き合う。
英雄は葛藤し、失敗し、傷つき、けれど深い自己から沸き起こる内なる力を見出し、敗北から舞い戻り、再び愛する。
愛する英雄は過酷な挑戦に向き合っていると知っている。
人生は自分を持ち上げもすれば引きずり落としもすると謙虚に知っている。
謙虚でなければ謙虚であるように強いられることも知っている。
これらを知った上で、勇気をもって愛の冒険において一歩一歩を進む。
愛する英雄であることは、生きることの女神に身を捧げること。
女神が与える試練を受け入れ、それを通じて愛に値する恋人となり、女神が求める偉業を成し遂げることで愛を証明し、私たちという形なき彫刻に線を刻むために嵐を耐える。
生きることの恋人であることは、人生は良いものであり、そして悪いものであることを受け入れること。
人生は楽しむものであり、そして耐えるもの。楽しんでいる時、生きているのは最高の気分。
耐える時、知恵と慈悲は深まる。
耐えることは耐えられるようになることであり、そうすることで強くなる。魂は鍛えられ、眩しい日射しの中だけでなく、嵐の中でも立ち続けることができるようになる。
天気がどうであれ、愛することができる。
スピリチュアルな挑戦とはハートを閉ざすことなく試練に立ち向かうこと。
いやそれ以上、苦しみによって自分を開く。
苦しみは辛い経験だが、喜びやワンダーと同じだけ目覚めさせる力を持っている。
愛する英雄はかき乱される準備ができており、その混乱を通じて自由になる。
愛が流れ込むためにハートは幾度も破られ開かれる必要があると知っている。
英雄は荒々しい角を磨いている痛みに向き合う準備ができている。
経験は良いことと悪いことの間を流れると知っている。
絶望と希望、失敗と成功、苦しみと恍惚の合間を上がっては落ちていく波を乗りこなす。 

神秘に意識を向けると神秘体験が立ち上り、すると意識の状態は、すぐさま変化を始める。
意識の状態に変化が起こると、こうして自分が存在していること、そして、それがどれほどすばらしいことかをはっきり見て取ることができる。
いつもの世界を好奇心と共に見つめるようになる。
マインドが把握する現実はちっぽけなものだと認めるようになる。
ハートは生きる喜びにワクワクするはず。
けれど、これは神秘体験の表面的現れにすぎない。
神秘に深く潜れば潜るほど、神秘体験もまたさらなる深さを私たちに見せてくれる。

神秘体験に深く入る時、私は愛の海に溶けてゆくように感じる。
宇宙と一体になる驚きと閃きの感覚がそこにある。
感覚的肉体が目覚め、意味の模索は言葉なき理解に解け出し、それはあまりに深く、深いがゆえに考えとしては経験されず、そこには「すべてよし」という確かな確信があり、我が家に辿り着いたような安心感がある。

私はスピリチュアルな探求を経ても、なおかつ、そう望み、また想像していた永遠の目覚めには達していない。
一方でもっとすばらしいことが起こった。
そう、私は生きることと恋をするようになった。
そして、ある日、すべてを変える何かに気づいた。
私は完璧に無条件に生きることを深く愛するようになった。
良い時も悪い時も、健やかなる時も病める時も、喜びにおいても悲しみにおいても、生きることの恋に身を捧げていると知った。
“存在すること”がもたらす愛が、山あり谷ありの人生との恋愛において、私を支え続けている。
だからこそ、たとえ、起こっている出来事が好きになれなくても生きることを愛することができる。
良い時も悪い時も生きることに身を捧げ嵐に耐え、雨の中で踊ることができる。
神秘体験を探ることで私の人生は恋愛へと変容した。
そして、スピリチュアルな探求に対する見方も変わった。
永遠には辿り着くことはできないだろう究極の悟りを望むことはなくなった。
その代わり生きることに見合った恋人になろうと決めた。

目覚めの冒険の旅は、生きることにワンダーすることからスタートするが、人生がワンダフル、つまり、すばらしさに満ちているとは感じられない瞬間が多々あることも重々承知している。
私たちは生きることについて現実的である必要がある。
目覚めの冒険をするのであれば、悲しみ、迷い、怒り、苦しみ、囚われ、孤独をはらんだ生きることの暗闇にも足を踏み入れなければいけない。
そこに足を踏み入れなければ自由になることはできないから。

深く目覚めている時、ティムは悟りの泡の中に消えるのではない。
むしろ、ティムは生き生きとする。
目覚めとは自分自身の人間性を否定することではない。
個性を祝福し、個人として生きることの鋭い美しさを堪能したい。
エゴとは個人である私としての感覚であると言える。
ワンネスに目覚める時、個人としての自分の感覚が無意味な幻想として消え去ることはない。
逆に個としての私がどれだけ大切か知る。
私は私を消し去りたいとは少しも思わない。
できるだけ一緒にいたい。
私がなければ、そこに意識もないから。
個性は祝福するべきものであって、中傷の対象ではない。
深い愛に目覚めると、分離した自分は愛を運ぶ乗り物になる。
個人としての自分は、この世界における基盤であり、それを土台として目覚めていく。
それは存在の無限の可能性のすばらしく特徴的な表現であり、根源のワンネスは個を通じて生きることを経験する。
自分につけられた条件づけに疑問を持つ時、初めて本当の個人になる。
エゴは生きることの物語の英雄。
存在としての私はエゴである分離した自分を通じて生きることの冒険を経験する。
エゴは小さなちりでありながら、お芝居の主役であると理解する時、謙虚さと共に力強さを感じる。
ワンネスを意識しながら、あなたの人生という冒険の英雄であることができ、分離した個人として力を得ることができる、目覚めるためにエゴを消し去る必要はない。
深い自己にも気づけば、それでよい。
しかし、ティムとしての経験はすばらしい旅だが、ティムは時として苦痛の種でもある。
でも、それでも私はティムをスピリチュアルな自分にとっての重荷であるとは考えていない。
様々な欠点にも拘らずティムを愛するようになったから。
ティムであることは時には困難を伴うが、私は忍耐をもって接する。
深い愛に目覚める旅の英雄としてエゴを讃えたい。