ティムの目覚めやワンネスの分かち合い

12歳の時に突然起きた目覚めを体験して以来、ティムは霊性を真摯に探求してきました。目覚めやワンネスについてのティムの分かち合いを著書や動画からピックアップしていきます。

この体験は、とても重要な体験でした。まだ語る時期ではないかもしれませんが、少し分かち合いたいと思います。わたしは完全に神に浸透しました。身体の感覚や、マインドの意識もなく、ティムもいない、ただ神のみ、純粋意識の至福だけが在るという体験でした。真っさらで無限に広がる部屋の中にいるようでした。わたしは完全に歓迎されていました。死のようでもあり、死から蘇ったようでもあります。そして、ティムの意識が身体に戻ってきた時、ああ、また分離だと思うこともなく、身体があること、そして、ティムというストーリーを持っていることはなんて素晴らしいのだと思いました。そして、ティムからの解放と、ティムへの途轍もない是認がありましたーーそして、"声"が語りかけてきましたーーティムはよくやっているよ。続けていきなさいとーー。

わたしはわたしのすべての意識を向けて、この体験から皆さまに提供できる何か新しいものに取り組んでいます。

「わたしはリトリートを 善き人々/Good people が集う場にもしたいと思っています。
この善/Good とは 神/God でもあり、途轍もない大きな愛です。昨年末の重要な体験では、わたしはまさにその愛の中にいました。この深遠な善/Goodness を、わたしたちは生まれながらにして宿しているのです。そして、この善/Goodness は、わたしたちの中で進化しているのです。」

目覚めについて頭で理解したものの、まだ経験してないという人もいるかもしれない。知的理解は、大きな助けになるが、「わお!」を経験するためには思考を超えなければならない。

私にとってのスピリチュアルな冒険は、本質においては愛にまつわる冒険。ハートを開くためには、マインドを澄んだ状態にする必要がある。

目覚めは肉体から切り離された悟りの経験ではない。それは肉体的に生きる感覚を経験すること。深く目覚めている時、私たちは存在することの愛を本能的に感じ、それは、皮膚に包まれた体と呼ばれる神経、肉、骨へと浸透する。すばらしい肉体!これは誰もがすべき体験。

深く目覚めている時、私は「生き生きとした状態」と呼ぶ情熱的な状態に入る。その状態にあって私は力強く今ここにあり、その瞬間を心より愛している。

生きることと恋をしているからといって、人生はすばらしいと常に感じるわけではない。それは生きることをそのまま丸ごと愛すること。良いこと悪いことのどちらも抱きしめる。人生の騒乱を情熱的に楽しみ、寛容に耐え、それらを通じて愛することを学ぶ。「わお!」に目覚めるのはすばらしい感覚だが、それは単に心地良い感覚ではない。深く愛することは時として深く苦しむことでもある。目覚めることで、私は愛に支えられ、意志をもって苦しもうとする。そうする時、心を痛めることも、また意味を得て心に響き、美しく輝く。しっかりと耳を傾けると生きることの「わお!」はさまざまな音色で奏でられていることがわかる。喜びに満ちた恍惚の「わお!」もあれば、じっと耐える悲しみの「わお!」もある。興奮に溢れた希望の「わお!」もあれば、落胆に嘆く「わお!」もある。親しみの温かさがほとばしる「わお!」もあれば、胸を貫くような喪失の「わお!」もある。生きることの音楽は長調で奏でられることもあれば、短調で奏でられることもあり、私はそのどちらにもかき立てられる。

生きることが解いてみたいと思わせるほどに大きな謎であったからこそ、私はスピリチュアルな探求の旅に出た。しかし、やがて私は問こそが答えであったと気づいた。人生は神秘。それこそが生きること。神秘を知る時、生きることは何なのかをとても親密に知っていて、そこに言葉は必要ない。

物語と神秘の両方を意識することが大切。矛盾するようだが、自分の物語をしっかりと把握している時、神秘においてリラックスすることはより簡単になる。生きることが何なのかを知りながらにして知らないと気づいている時、存在することの荘厳な謎と恋におちる。私を取り巻く神秘をまるで温かな抱擁のように感じ、私の内にある神秘がすべてを確証する存在であるように感じる。恐れてなどいない。驚異の念でいっぱいだ。

私たちが知っている、あらゆる物語の中心は深い神秘であるということが、この中であなたと分かち合いたい論理を超えたメッセージ。深い神秘の中心には深い知恵が横たわっている。それは直接的なもので言葉に媒介されることはない。それは“すべてが良い”という静かな確信。大切なのは愛だけだという揺るぎない信念。これは数えきれないほどの世代を通してスピリチュアルな探求を行った人々が口々に伝えてきた荘厳で興味深い洞察。何でもないようなシンプルな気づきがすべてを変える。真実はあなたを自由にする。“目覚めること”は、“知らないこと”と同じだけ簡単。この大胆なメッセージの神髄を理解してほしい。生きることに深くワンダーすることへとあなたを誘うので「本当は何も知らないのだ」という深い状態にあって、意識の状態にどのような変化が起こるのかを見てほしい。生きることについて、知りながらにして知らないという理論を超えたアプローチをしてほしい。生きることが意味を成すように、私たちはその物語を必要とするが、「わお!」を経験するには、何が起こっているのかを本当は知らないと理解しなければいけない。目覚めのアートとは物語と神秘の両方に気づいていること。本当に何も知らないのだとハッキリ知るには多少の努力゜が必要。物語は物語に過ぎないと知り、根本において深い神秘に気づく必要がある。ハートの真ん中にある言葉で答えることのできない言葉なき問いに意識を向ける。言葉にすることのできない問いに生きることの深い神秘へと連れて行ってもらう。

ただ呼吸することの喜びに浸れることは実に美しい経験。

私は時間を取り、ティムの物語での出来事について感じていることをたっぷりと受け入れた。別れの悲しみを讃えた。後悔と恐れを認めた。そして、その物語をしばし傍らに置くことを選んだ。意識的に物語から身を引き、この瞬間の時間を超えた安らぎにおいて自分をリフレッシュすることを決めた。この瞬間の神秘に深く入ると、そこにあるのはせせらぎの音楽だけで、私の心掛かりを優しく撫でながら取り去ってくれた。私のハートは開かれ、存在することの深い愛を感じ、表面上の出来事がどうであれ、すべては良いと深く知っていることに気づいた。意識の状態が変容するまで時間を超えた瞬間に留まった。そして、直感的に「今だ!」と思ったその時、注意を物語に戻した。その時、私は自分の苦難を新たな視点で見つめ、何をすべきか知っていた。

私は意識していることに意識的。私は存在していることを意識している。常に存在するとても神秘的な存在であると感じる。私は変わり続ける経験の流れを見つめる変わることのない静けさ。経験の流れにおいて私はティムと呼ばれる人物として現れる。けれど、本質的には私は展開し続けるティムの冒険を目撃する気づきそのもの。これが私の深い自己。私は気づきの存在であり、これはすべての経験の背景。これが私の裸の存在。身体は私がそう現れるもの。気づきは私がそうであるもの。アイデンティティの表層において、私はティムと呼ばれる肉体。アイデンティティの深みにおいて、私はティムの冒険を見つめている気づき。表層において、私の身体は感覚の世界に存在している。表層において、私は物理的な客体として現れている。深みにおいて、私は本質的なスピリチュアルな主体。客観的にいえば、私は物理的な肉体。主観的にいえば、私は気づきの存在。世界は気づきの内に存在する。気づきが私の経験の中にあるのではなく、経験が気づきにおいて起こっている。

ある視点からは、私は物語に登場する人物であるように見える。もうひとつの視点から見ると、私はすべての経験が立ち上がる広大な気づき。明晰に生きる時、人生の物語はそれまでと同じように続くが、私は世界にありながら、世界にないことを理解しており、生きることの経験は変容する。私の本質は、時間において展開するティムの冒険を目撃している。私はティムを通じて意識している最上の存在。特定の自分として個別化した無意識の場。私はこの意識的な肉体として個別化された無意識の宇宙。肉体は宇宙から切り離されているように見えるが、それは本質的に宇宙とひとつであり、独立した存在ではあり得ない。私は意識的な個ティムとして立ち上がる無意識のワンネス。私の存在は、他の存在から切り離されているように見えるが、すべての存在は本質的に生きとし生けるものとひとつ。私はすべてのものから分離しながら、それらとひとつ。根源の気づきは永遠の存在であり、時空には存在しない。時空は気づきに立ち出る分離の夢という個性を築く。存在の根源的場はあらゆるところにいつも在る。

私にとって目覚めのすばらしさは、私の人間らしさをあるがままに受け入れさせてくれること。深い自己に目覚めながら、人間性を祝福する。表面においてティムは不完全で脆く傷つきやすい存在であると意識している。そこにすべてを包み込む愛がある深い自己を意識している。怯えた子どもを抱きしめるようにティムを抱きしめ落ち着かせようとする様子を想像する。栄光なる欠点と共に、ただわたしは"それ"であるという理由でそのままのティムを愛する。

生きることは進化のプロセスであり、人生の目的はどこかに到着することではなく、旅をすることそのもの。過程こそが目的。自分自身に忍耐強くあること。それはぶつかり合うペルソナ達の内なる対話。多種多様な内なる意見に耳を傾けること。傷ついて愛されない自分をなだめて暗闇から連れ出し癒されるまで優しく抱きしめる。そして愛に溢れた深い自己の現れへと進化するために、自分の性質を受け止め欠点を許す。自分自身に落胆した時、俯瞰し、深い自己の視点から分離した自分を見つめる。まるで問題を抱えた子どもの母親のように。葛藤する子どもと向き合う時と同じ慈愛で自分を抱きしめる。ありのままのティムが愛に値すると知るまで。目覚めはスピリチュアルな到達点ではなく、あらゆる瞬間すべての人が触れることのできる自然な状態。

生きることの恋人であることは聖なる探求において、愛の現れになるために生きることを愛する英雄であること。勇敢に愛を確信し、目の前に立ちはだかるジレンマに向き合う。英雄は葛藤し、失敗し、傷つき、けれど深い自己から沸き起こる内なる力を見出し、敗北から舞い戻り、再び愛する。愛する英雄は過酷な挑戦に向き合っていると知っている。人生は自分を持ち上げもすれば引きずり落としもすると謙虚に知っている。謙虚でなければ謙虚であるように強いられることも知っている。これらを知った上で、勇気をもって愛の冒険において一歩一歩を進む。愛する英雄であることは、生きることの女神に身を捧げること。女神が与える試練を受け入れ、それを通じて愛に値する恋人となり、女神が求める偉業を成し遂げることで愛を証明し、私たちという形なき彫刻に線を刻むために嵐を耐える。生きることの恋人であることは、人生は良いものであり、そして悪いものであることを受け入れること。人生は楽しむものであり、そして耐えるもの。楽しんでいる時、生きているのは最高の気分。耐える時、知恵と慈悲は深まる。耐えることは耐えられるようになることであり、そうすることで強くなる。魂は鍛えられ、眩しい日射しの中だけでなく、嵐の中でも立ち続けることができるようになる。天気がどうであれ、愛することができる。スピリチュアルな挑戦とはハートを閉ざすことなく試練に立ち向かうこと。いやそれ以上、苦しみによって自分を開く。苦しみは辛い経験だが、喜びやワンダーと同じだけ目覚めさせる力を持っている。愛する英雄はかき乱される準備ができており、その混乱を通じて自由になる。愛が流れ込むためにハートは幾度も破られ開かれる必要があると知っている。英雄は荒々しい角を磨いている痛みに向き合う準備ができている。経験は良いことと悪いことの間を流れると知っている。絶望と希望、失敗と成功、苦しみと恍惚の合間を上がっては落ちていく波を乗りこなす。 

神秘に意識を向けると神秘体験が立ち上り、すると意識の状態は、すぐさま変化を始める。意識の状態に変化が起こると、こうして自分が存在していること、そして、それがどれほどすばらしいことかをはっきり見て取ることができる。いつもの世界を好奇心と共に見つめるようになる。マインドが把握する現実はちっぽけなものだと認めるようになる。ハートは生きる喜びにワクワクするはず。けれど、これは神秘体験の表面的現れにすぎない。神秘に深く潜れば潜るほど、神秘体験もまたさらなる深さを私たちに見せてくれる。

神秘体験に深く入る時、私は愛の海に溶けてゆくように感じる。宇宙と一体になる驚きと閃きの感覚がそこにある。感覚的肉体が目覚め、意味の模索は言葉なき理解に解け出し、それはあまりに深く、深いがゆえに考えとしては経験されず、そこには「すべてよし」という確かな確信があり、我が家に辿り着いたような安心感がある。

私はスピリチュアルな探求を経ても、なおかつ、そう望み、また想像していた永遠の目覚めには達していない。一方でもっとすばらしいことが起こった。そう、私は生きることと恋をするようになった。そして、ある日、すべてを変える何かに気づいた。私は完璧に無条件に生きることを深く愛するようになった。良い時も悪い時も、健やかなる時も病める時も、喜びにおいても悲しみにおいても、生きることの恋に身を捧げていると知った。“存在すること”がもたらす愛が、山あり谷ありの人生との恋愛において、私を支え続けている。だからこそ、たとえ、起こっている出来事が好きになれなくても生きることを愛することができる。良い時も悪い時も生きることに身を捧げ嵐に耐え、雨の中で踊ることができる。神秘体験を探ることで私の人生は恋愛へと変容した。そして、スピリチュアルな探求に対する見方も変わった。永遠には辿り着くことはできないだろう究極の悟りを望むことはなくなった。その代わり生きることに見合った恋人になろうと決めた。

目覚めの冒険の旅は、生きることにワンダーすることからスタートするが、人生がワンダフル、つまり、すばらしさに満ちているとは感じられない瞬間が多々あることも重々承知している。私たちは生きることについて現実的である必要がある。目覚めの冒険をするのであれば、悲しみ、迷い、怒り、苦しみ、囚われ、孤独をはらんだ生きることの暗闇にも足を踏み入れなければいけない。そこに足を踏み入れなければ自由になることはできないから。

深く目覚めている時、ティムは悟りの泡の中に消えるのではない。むしろ、ティムは生き生きとする。目覚めとは自分自身の人間性を否定することではない。個性を祝福し、個人として生きることの鋭い美しさを堪能したい。エゴとは個人である私としての感覚であると言える。ワンネスに目覚める時、個人としての自分の感覚が無意味な幻想として消え去ることはない。逆に個としての私がどれだけ大切か知る。私は私を消し去りたいとは少しも思わない。できるだけ一緒にいたい。私がなければ、そこに意識もないから。個性は祝福するべきものであって、中傷の対象ではない。深い愛に目覚めると、分離した自分は愛を運ぶ乗り物になる。個人としての自分は、この世界における基盤であり、それを土台として目覚めていく。それは存在の無限の可能性のすばらしく特徴的な表現であり、根源のワンネスは個を通じて生きることを経験する。自分につけられた条件づけに疑問を持つ時、初めて本当の個人になる。エゴは生きることの物語の英雄。存在としての私はエゴである分離した自分を通じて生きることの冒険を経験する。エゴは小さなちりでありながら、お芝居の主役であると理解する時、謙虚さと共に力強さを感じる。ワンネスを意識しながら、あなたの人生という冒険の英雄であることができ、分離した個人として力を得ることができる、目覚めるためにエゴを消し去る必要はない。深い自己にも気づけば、それでよい。しかしティムとしての経験はすばらしい旅だがティムは時として苦痛の種でもある。でも、それでも私はティムをスピリチュアルな自分にとっての重荷であるとは考えていない。様々な欠点にも拘らずティムを愛するようになったから。ティムであることは時には困難を伴うが、私は忍耐をもって接する。深い愛に目覚める旅の英雄としてエゴを讃えたい。