生と死、輪廻転生と目覚めについて

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StarPeople  vol.47
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生と死のパラドックスを見るとき、愛と叡智がよみがえる

覚醒を哲学的に説き、著書やリトリートでわかりやすく伝えているティモシー・フリーク さん。「死とはある種の覚醒である」と語る彼に、生と死について紐解いてもらった。 あの世とこの世で、私たちはどのように目覚めることができるのだろうか。



死とは、多くの人生を思い出すこと

一一 人が死ぬということを、どのように考えていますか。

ティモシー 「人々は死を、忘れてしまうことだと思って恐れるが、死とは、思い出すことである」とソクラテスは説きました。これは何を意味しているのでしょうか。
 私たちが覚醒した状態で生きるとき、死後に入っていく世界、死後に目覚めていく領域の一端に触れています。私たちが覚醒した状態で愛のなかにいるとき、それは死後に入っていく領域の片隅で起こっているのです。
 言い換えるなら、私たちが覚醒すると、個を超えたもっと深い性質を部分的に意識するようになり、ワンネスと愛を経験します。人は死ぬと、完全にその深い性質のなかに入っていくということです。



一一 誰もが死ぬと覚醒するのでしょうか。

ティモシー  そうです。死とは、別のレベルにおける目覚めであり、夢から覚めるようなものです。こんなエピソードがあります。ある男性が私に、もし人生が夢のようであるのなら、死んだときには何が起こるのかと尋ねました。「わからないけれど、君は夢の中で死んだことはある?」と聞くと、経験があると言います。「そのとき何が起こったの?」と尋ねると、「目が覚めた」と彼。実際の死も、これと同じではないでしょうか。
 また、臨死体験をすると、自分のいままで送った人生がすべて再生されると言われます。これは、私たちが夢から覚め、その夢を思い起こし、その意味を見い出すことに似ています。
 人は夜に夢を見ているとき、無意識に夢のなかにいます。また、別の状態として、明晰夢を見る、つまり意識的に夢を見ていることもあります。明晰夢を見ているとき、あなたは夢を見続けていますが、目が覚めた状態よりも深いアイデンティティーを多少は意識しています。夢と一体でありながらも、夢を見ている自分をも意識しているのです。そして目が覚めると、私たちは完全にその深いアイデンティティーとなり、夢は消えます。 死ぬときもこれに似ています。人が死ぬと、より深いアイデンティティーを完全に意識することになり、目が覚めていたときのアイデンティティーは終わるのです。
 夜に夢を見て、朝、目覚めたとき、夢についてほんの少しのことしか覚えていません。また、夜に夢を見ているとき、それまでほかにいろいろな夢を見てきたことは忘れて、その夢だけを経験しています。その夢の中にどっぷり浸かり、目が覚めた状態も覚えていません。でも朝になって目が覚めると、より意識的になり、もっと思い出すのです。いままでに、さまざまな夢を見てきたことも知っています。
 これと同様に、私たちが死ぬと、より意識的になり、より深いレベルのアイデンティティーに目覚め、もっと思い出すのです。つまり、多くの夢を見てきたのと同じように、それまでに多くの人生を経験してきたことがわかるのです。



生きることで死後の世界を支えている

一一覚醒した人は、ある意味、死ぬことなく死後の世界を体験しているのでしょうか。

ティモシー  そうです。夢から覚めると、ほかにも夢を見てきたことを思い出すように、人生から覚めると、いままでのほかの人生を思い起こせるのです。
 シャーマニズムの伝統に、「神々のための熟した果実になるために、人生を生きる」という言い伝えがあります。「熟した果実」とは、私たち一人ひとりの人生に当たります。私たちはひとつの果実でありながら、また別の果実でもあったということ。もっと言えば、深いレベルで、私たちはみんな神であると言っているのでしょう。



一一生の世界と死の世界は、どのような関係にあるのでしょう。

ティモシー 私は、一人ひとり の個別の人生は、個を超えたもっと深い部分のアイデンティティーを支えているのではないかと考えます。別の言い方をすると、目が覚めているときの意識を支えるために、夜に夢を見る必要がある、という考えに興味を覚えるのです。
 私たちは夢見る状態を強要されます。そうしないと、目が覚めたときに意識が分裂して、問題が生じてきます。もしあなたが私のようにクレイジーで、眠らずにいたらどうなるか試してみたいなら、ぜひやってみてください。私は若い頃に試しましたが、 5 日もすれば、目が覚めていながら夢を見始めることがわかります。しまいに私は、立ったまま気を失ってしまいました。つまり、目が覚めた状態を支えるには、眠らなければなりません。要するに、何らかの形で、浅い意識状態が、より深い意識状態を支えているのです。
 これは死についても言えるのではないでしょうか。いつも夜に夢を見る必要があるのと同じように、生きることが必要であり、それが死後の世界を支えているのです。つまり、生きるということは、より大きなものを支える手段になるのです。
 私たちは夢のなかで、魂の断片を表現し、探求しているのでしょう。同じように、生きることで、私たちは魂のある側面を表現しています。その人生という夢は悪夢にもなり得るし、とても美しいものにもなり得ます。
 死後のより深い状態を支えるために、浅い意識状態が必要だということ。より深い状態とは、個々の特性とワンネスの両面に気づいて覚醒した状態、また、臨死体験者が語るような愛の状態と言ってもいいでしょう。



死者とつながるとき創造主とつながっている

一一輪廻転生については、どのように考えていますか。

ティモシー 一部の東洋的概念 には、悟りに失敗すると再び転生するという考えがありますが、ここで私が提案していることは、そうした東洋的概念とは異なります。夜眠りにつくことが、目覚めている状態の維持に失敗したからではないのと同様に、人間として転生することが、悟りを得ることに失敗したからだとは感じません。むしろ、これはすべて自然の過程の一部なのです。
 私が想像するに、意識にはスペクトルのように階層があります。そのいちばん底に深い睡眠があり、私たちはその階層の間を行き来します。毎晩、睡眠中は無意識の深い底に沈み、夢を見る状態に上がり、目が覚めた状態に到達します。
 それと同じく、一生のなかで私たちはある階層の間を行き来し、死によってより高次元へと移行していきます。しかしながら、その高い次元の状態を支えるために、再び低次の状態に降りていくのです。それは、陰と陽の流れのようでもあります。
 私の無邪気な想像の中では、いつまでもみんなで目が覚めた状態を楽しんでいたいのですが、いずれは「すみません、もう寝ないといけません」という状態になります。より浅い意識状態に引きずり下ろされるのです。
 輪廻転生も同じようなものではないでしょうか。輪廻転生は悟りに失敗したのではなく、ごく自然なことなのです。



魂をもつのではなく魂に所有されている

一一輪廻転生からの解脱はあるのでしょうか。

ティモシー わかりません。でもひとつ感じるのは、終わりなどないということです。なぜなら、到着があるとしたら、必ずまた次の旅に続くからです。個別の人生を生きる私たちは、無限の可能性のなかの、微少なちりのような体験をしているに過ぎないのでしょう。
 輪廻転生とは、円のなかを回っているようですが、実際は前進を続ける車輪のようなもので、進化が起こっています。私はこれまでの人生で、眠って夢 を見ることを繰り返してきましたが、この過程で私〝ティム〞は進化してきました。できれば賢くなっていたいです。少しはそうなれたかも知れません。
 また、夢の中のティムが多くのペルソナ(表向きの人格、仮面)をもつのと同じように、彼にはより深いアイデンティティーがあります。つまり、目が覚めたときのティムにもまた多くのペルソナがあるのです。夢のなかにティムがいて、それは目の覚めたティムのなかに含まれ、目の覚めたティムはより深い自己のなかに含まれているということです。
 よく人は、「ティムは魂をもっている」と言いますが、私からすると、それは逆のような気がします。ある魂がティムをもっている。ティムが魂を所有しているのではなく、ティムを所有する魂が存在するのです。



一一死者とつながることはでき ますか。

ティモシー これは私が何回も 体験したことですが、身近な人が他界すると、その人がもっていた本質をより強く感じられるようになります。たとえば最近、私は父の死によってこのことを経験しました。父の生前、私なりに彼を理解していたつもりでしたが、それは彼の限られた側面に過ぎませんでした。父の死後、彼のより大きな存在を感じることができたのです。
 そして最近、父とつながるとき、父とつながっているというよりも、父を内包した創造体とつながっている感覚があります。別の例えで言うと、父の人生を綴った1冊の本があるとしたら、その本を書いた著者とつながっているように感じるのです。父の本には始まりがあり、冒険もあり、最後に悲しい結末に辿り着きました。でもよい物語でした。その本には終わりがあります。でも著者は未だに存在していて、そのひとつの物語を超えているのです。父の物語は終わったように見えますが、著者のなかにはこの物語が含まれていて、何も失われてはいません。物語は永久に生き続けるのです。私は父とつながろうとするとき、大いなるものとしての父とつながります。それはいつまでもそこにあり、消えることはないのです。



生と死というパラドックスを体験

一一この世に転生して、たとえば男性・女性に生まれたりするのは、何によって決まるのでしょう。

ティモシー あなたが最後に見 た夢は、誰がその内容を決めたのでしょうか。完全なる自己の内側から何かが自然に起こり、あなたにとって必要な夢が浮上したのです。ですから、定かではありませんが、人の一生も同じようなものだと予想されます。
 もし自分の夢を観察したら、夢のなかで、次第に意識的な選択ができるようになります。特に明晰夢を見るときはそうです。同じように、進化の旅をするなかで私たちがより意識的になれば、ただ無意識に展開する人生の状態から、もっと意識的に選択できる状態へと移れるのではないでしょうか。私自身、意識が浅いときには習慣で行動しますが、より意識的になることで、主体的に選択できるようになります。
 私たちは、毎晩眠ることで無意識になり、再び目覚めて意識的になります。目覚めているためには、眠らないといけません。それは逆説的です。常に私たちは、分離と非分離(全体)のような逆説(パラドックス)の2極間を行き来しながら旅をしているのです。私たちが一体であることを知るためには、まず分離している姿を現すことが必要です。生と死もそうであり、これが存在における陰と陽なのです。私たちはこのパラドックスとともに、愛と叡智を探し求めています。
 最後に、私にとって英雄のひとりである哲学者、プロティノスの言葉を紹介しましょう。彼はこう言いました。「哲学を試みるときはいつでも、〝〜のごとく〞という表現を付け加えなさい。これで何においても、結局はわからずじまいであることがわかっていられるから」
 ここで私が語ったことは、ほんの少しの経験による直感を述べたに過ぎません。私にとって何かを理解しようとするときの鍵となるのは、すでに理解できているものと比較することです。私たちにはある程度、目が覚めているとき、夢を見るとき、深い眠りに入ったときの間を行き来しているということに理解があります。この理解をもとに、正当性に欠けるファンタジーに飛躍しないよう注意しながら、生と死の関係について述べてきたつもりです。
 私たちは常に、神秘の下では謙虚であるべきです。なぜ夢を見る必要があるのか、実は誰もわかっていないのですから。

雑誌『StarPeople』vol.47 (ナチュラル・スピリット社)インタビュー記事より